中野家住宅は調子地区の旧西国街道沿いに位置し古い街道筋の面影を今に伝えている貴重な建物として2010年9月に国の有形登録文化財に登録されました。
登録を受けた建物は、主屋・茶室・土蔵の3棟で主屋と土蔵は江戸末期、茶室は1951年に建てられたものです。
主屋は間口の広い敷地形状に近郊農家の特徴を備えるとともに江戸時代初めに西国街道沿いに形成された茶屋町にあった格子状の表構えや間取りに町屋としての特徴をあわせもっています。
戦後に施された屋敷全体の増改築には今日の町屋大工棟梁である北村傳兵衛が携わっており、茶室は傳兵衛によって建てられた現存する数少ない建物となっております。
間口の広い農家の特徴を備える主屋
主屋は西国街道に接する西北面に門口をもち、棟が街道に平行する平入りの桟瓦葺(さんがわらぶき)
正面に向かい左手に切妻造(きりづまづくり)、右手は棟位置を後方にずらして一段下げ、寄棟造(よせむねづくり)としている。
厨子二階(つしにかい)で、正面に虫籠窓(むしかごまど)を3箇所あけ、正面に向かって左手に出格子を立てており、間口の広い敷地形状に近郊農家の特徴を備えるとともに、旧街道沿いに形成された茶屋の町場にあって、格子の表構えや間取りに町屋としての特徴もあわせもっています。
九代目北村傳兵衛によって建てられた茶室「皎庵」
茶室「皎庵」は敷地奥の離れの一角にあります。
木造平屋の一部二階建て、入母屋造(いりおもやづくり)及び切妻造の桟瓦葺建物の一階北側に1951年に新設されました。
茶席は四畳半で台目床(だいめどこ)を付けており、床脇に書院窓を設けています。天井は葺の網代天井であり、四分割して床の間の前を高く、給仕口を低くする手法を施しており、京都の町屋大工である北村傳兵衛によって営まれた現存する希少な茶室となっております。
北村家は京都の木屋町通に居を構え、代々「傳兵衛」を襲名する家柄で、4代目から9代目まで町や大工を家業としてきました。
9代目が生前手掛けた町屋は京都だけでも百棟を超え、茶室建築では常に新しい試みや創意工夫に意欲的でした。
旧家としての往年の雰囲気を今なお保つ土蔵
土蔵は敷地奥の一角、茶室に隣接しています。
土蔵造の二階建てで、切妻造の桟瓦葺となっており主屋とともに江戸時代末期に建てられたとされています。
主屋の座敷から眺めると、増築された茶室と並列する姿に、良質の庭と相俟って印象深い景観を形成しております。
中野種一郎(以下、種一郎)は明治9年(1876)に父米造、母きのの間に男5人、女4人の9人兄妹の長男として生まれた。父の中野米造、次弟の中野時太郎は新神足村長として長く村行政に貢献した。
現在のJR長岡京駅(旧:神足駅)は米造の村長時代に計画、時太郎村長時代に開設されたもので、中野駅と呼ぶ地元住民もいたと言われています。
その頃、伏見市長であった種一郎の側面からのサポートもあり、父子二代の念願が実った新駅でもあった。
若くして政治に関心を抱いた種一郎は犬養毅(文部大臣・逓信大臣・第29代内閣総理大臣を歴任)に私淑し、政治家を目指した。
政治家としての一歩は明治41年(1908)、32歳で伏見町議員に立候補し当選したことに始まる。
その後、伏見町長、伏見市長、京都市会議員、京都府会議員を経て衆議院議員として国政に参加することになる。
種一郎は衆議院議員時代の昭和8年(1933)から伏見酒造組合に推され、京都商工会議所の一級議員を兼ねていた。
昭和21年(1946)10月、人格、統率力、識見を買われ、満場一致で種一郎が新会頭に選ばれた。
「京都商工会議所を最後の務めとして、京都経済界の繁栄と発展のために全力を尽くしたい」
これが会頭就任の第一声であった。71歳の時である。
全国の商工会議所会頭で種一郎ほど在任期間の長い人はほかに見ない。
昭和21年(1946)10月から昭和40年(1965)4月まで足かけ20年である。
1千人の京都商工会議所会員が5千人になり、京都商工会議所を新しく建て替え、完成を機に退任した。
昭和45年(1970)10月、種一郎は「京都市名誉市民」の称号を受けた。
そのほかにも「藍綬褒章」(昭和31年・昭和34年の2回)、「紺綬褒章」(昭和34年)、「勲三等旭日中受章」(昭和39年)、「勲二等瑞宝章」(昭和46年)、「正四位」(昭和49年)を受賞した。
[一般社団法人長岡記念財団設立75周年記念誌「創設者・中野種一郎の足跡」から再構成]